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青 空aozora

 「青空」とは、この事件とその背景、そして支える会メンバーの活動を小冊子にまとめたものです。少しずつ連載してきます。

なおこの文章は、支える会のみなさん全員に了解を取って書いたものではなく、文章の一切の責任は荒牧にあります。
このページには現在、第二部 生きて『償う』ためにを掲載しています。

■第一部 事件と裁判を読みたい方は、下記のボタンからお読みください

青 空 一部

青空 二部 生きて『償う』ために

一、始まり   

 事件の一報が、地元求菩提地区に届いた時、奥本家の家族全員の驚愕は言うまでもないが、彼を幼いころから良く知る人々にとっては、どこか現実感のないTVドラマの中の出来事のように感じられた。

 こんな田舎で、、、。そんな大それた事件が、、。最初は誰もがそう思った。
求菩提地区は、福岡県の東端、豊前海に面して隣は大分県中津市と隣接する豊前市の、市内を流れる岩岳川をずっと遡った、静かな山あいの地域にある。過疎化は進んでいるが、古くから修験道の里として知られ、市内では唯一といってもいい、小さな観光地でもある。そこに暮らすのは、もう少し広い行政区である岩屋地区を合わせても238世帯600人ほどの人たちだ。

 事件発生は3月1日であったが、3月の5日には地元のお寺、宝寿寺に20名ほどの人々が集まった。お寺らしくまず、お経をあげて仏様に手を合わせてから、事件のこと、今後のことなどが話された。みんなの思いは 『あんな、いい子だったのに、、、』『宮崎で何があったのか?』『かわいそうに、、、』というものだった。そして、その中心にいたのは、住職の矢鳴哲雄、坊守の矢鳴実佳夫婦だった。住職のリードで、話しは進み、事件の内容がどうであれ、地元に残る奥本家を支えるためにも減刑を求める嘆願書を、集められるだけ集めること。今後の動きのためにカンパを集めることなどが話し合われた。3月8日には集まったお金を奥本家に届けている。

 減刑嘆願書は最終的に200通以上が集まった。一通だけ、筆者の承諾を受けてここに紹介する。

           嘆 願 書

 宮崎地方裁判所御中        平成22年4月16日

                      被告人 奥本章寛

 章寛君とは、小学校の頃から一緒に剣道をしていました。
当時練習中先生に怒られて泣いている私を「大丈夫?」となぐさめてくれる、本当に心の優しい子でした

 章寛君のお父さん、お母さん共、大変熱心で、練習や試合には必ず章寛君兄弟を応援に来ていました。家族仲が良く、皆真面目な理想的な家族でした。

 章寛君が今回このような事件を起こしたことに、大変驚きショックを受けました。彼を追い詰めてしまった原因が何かあったとしか私には考えられません。自分が犯してしまったことの重大さ、章寛君の家族、両親、兄弟、田舎の地域の人たちに与えたショックがどれだけ大きなものかを、これから本人に自覚していって欲しいと思います。章寛君は、長年続けた剣道、また自衛隊に就職していたことからも、自分の犯してしまった罪の重さを受け入れる精神力を持っていると確信しておりますので、どうか彼に考える時間を与えてあげて下さい。
 そして、被害者、ご遺族の方々に対して一生をかけて罪を償って欲しいと思います。

 最後に被害者の方々のご冥福を心よりお祈り申しあげます。    以上

               住 所 ○ ○ ○ ○ ○ ○   
                    氏 名    ○ ○ ○ ○

   
 この減刑を求める嘆願書は、結果的には一審の裁判員裁判の中では証拠として採用されることはなかったが、当初のこの一連の動きが、奥本君の家族を支えるために果たした役割は大きかった。

 事件から4年経った今も奥本家の人達は以前と同じ場所で暮らし、同じ職場で働いている。ある意味、事件前と同じように地域の中で普通に暮らしている。そんなことはなかなか無いことではないだろうか?田舎の狭い地域の中でのとてつもなく大きなニュースだ。

 慰めの言葉も労わりの言葉も、かけたくてもかけられない人がほとんどだったし、非難の眼で見る人もいただろう。何より当の家族にしてみれば自責の念や、世間の眼が気になってしまうのが当たり前である。どれ程いたたまれなかったことだろう。後になって父親の浩幸さんと話す中で、『(集会や、支援活動の中で名前が出ることに関して)覚悟がなかったら、とっくにこの地域にはいません。』と言う言葉を聞いた時に、まさにその覚悟の深さと重さに感動するのだが、そこに至るまでの地域の人たちの支えあってこそのことだったのだろう、とも改めて感じた。

 事件の朝、ニュースを見てそのまま駆けつけた、祖母良子の、近所の友人夫婦。そのお婆ちゃんは、一ヶ月間毎日通ったという。

 矢鳴夫婦がよく言うのだが
『縁が整えば誰がその身になるか解らない、章寛君のことは他人事じゃない』とか、『奥本さんの家族みんなの人柄が、本当に素晴らしいから自然とそうなったのよ』等という言葉と相まって、地域の関係性の深さ、田舎の良い部分がこの地域には残っていたのだと思う。

 このあと矢鳴実佳は、一審裁判に弁護側証人として出廷し、章寛君の生い立ち、人柄等を涙ながらに証言している。 ただ、地域の人たちの活動はここでいったん停止する。一審、二審ともに死刑という判決。その間とその結果を前にして、この田舎の素朴な人たちにはそれ以上為すすべが無かった。


 二、支える会結成へ

 そのころ、事件を知らせる新聞記事を眼にした一人の人物がいた。 隣町に住む岸本加代子である。彼女はこの事件や、関係する人々とは、ほとんど無関係だったが、すぐに独自な動きをはじめた。
 岸本は豊前市の隣、吉富町で長年無認可の「つくしんぼ保育所」を経営してきていた。彼女には若いころから死刑制度そのものに反対する気持ちがあった。それは彼女の歴史観の中に、医療の発達や、戦争ではなく平和への希求など、死に抵抗するすることこそが人間の歴史の一側面である、という観念があったことと、若い頃に死刑囚永山則夫の『木橋』という本を読んだことによる影響もあった、ということだ。

 そんな岸本が新聞を眼にした時『豊前市出身、22歳。まだ、子どもじゃないか、この青年は立ち直れる』と思ったという。長年保育士として子どもに関わってきた岸本には、『子どもは成長する。そして人間は変われる』という強い信念があった。その後、事件に関心を持ち続けて遠くから注視していたが、二審判決後には『このまま黙って見ているだけでは人生を終える時にきっと後悔する』とまで考えるに至っていた。

 意を決した岸本は、知人を介して奥本家を訪ね、事件のこと、自分の考え等を話しに行く。ただ、この時点では岸本の中にも『私の行動は奥本家の人々を傷つけるのではないか』と躊躇する思いもあったのだが、後日その知人を通して、章寛君の祖母良子の「岸本さんがみえてくれて、光が見えた」という言葉を伝え聞き、さらに意を強くした。

 その後、かねてより思いを伝えていた友人宮崎眞理子と共に行動を展開していく。

 岸本達はすぐに章寛君の国選弁護士である黒原智宏弁護士に連絡をとった。黒原が、博多への出張の帰りに行橋に寄ってくれて、そこで事件の詳しい経緯と裁判の内容について初めて知ることになった。

 彼女たちは信頼する仲間数人と共に、『奥本章寛さんを支える会』を立ち上げ、減刑嘆願書を集め、支援の輪を拡げるために、黒原弁護士を迎えて事件の全体像を話してもらう、学習会を企画した。

 2012年9月8日「つくしんぼ保育所」に黒原智宏弁護士を迎えて学習会が開かれた。

 私事になるが筆者(荒牧)はこの学習会で初めて事件の内容を知り、その後私自身にとっても、この事件や裁判そして、章寛君に深く関わることが、自分自身の人生に極めて重要な意味を持つと感じていく、そのきっかけを与えてもらった。

 学習会を企画するにあたって岸本は、黒原に対して「10名ほどしか集まらないかもしれませんが、、」と、あらかじめ断りをいれたという。豊前市や吉富町、またすぐ隣の大分県中津市等をエリアとして考えても、こうした殺人事件しかも加害者の側から物を考えようとする人間は極少数しか想定することが出来なかった。しかし実際には50名を越す人数が集まった。いくつかの経緯のもと、求菩提の矢鳴達と、岸本達の出会いがあり学習会への呼び掛けが届いていたからだった。

 豊前市から地域の人々、同級生、剣道部時代の恩師、担任をしたことのある教師などたくさんの人が駆けつけた。

 黒原弁護士の話しは、迫力と説得力があった。何故、事件が起きてしまったのか?章寛君がどのように追いつめられていったのか。裁判員裁判でおこなわれたこの裁判のどこに問題があったのか、さらに、章寛君の人柄とその後の成長について、宮崎なまりの独特な口調で語った。どれも衝撃的な内容だったが、特に印象的だったのは検察官が非公式な場所ではあったとの断りの上だが『死刑でなくても良かったのだが、試しにそう、求刑してみた』というくだり。集まった人々のなかに憤りが拡がった。ある意味では章寛君は被害者ではないのか?とさえ思った。三人の命、それも何の罪もないわが子まで何故手にかけなければならなかったのか?その疑問や、犯してしまった罪の大きさに関しては、どうしよもない無念さがあるが、せめて、償うための時間と機会が欲しいと感じた。会場にいた人は多分みなそう感じたと思う。

   黒原智宏弁護士。この人抜きにはこの事件の現在に至る状況も拡がりも語り得ない。弁護士なのだから当然と考えるかもしれないが、国選弁護人としてたまたま当たったこの人が、いかに時間とお金とエネルギーを費やしているか。二審の裁判の中で東京から臨床心理士2名を呼んでの心理鑑定では宮崎での滞在費含めて多額の費用のほとんどを自己負担したり、後々求菩提での学習会に手弁当で何度も足を運んでくれた。

 死刑制度の勉強にアメリカまで行くというようなことは、ご自身のキャリアのためでもあるかもしれないが、事件当初から、彼自身の御母堂や知人等何人もの人が、面会や差し入れに行っていたという。福岡から遠い宮崎では、地元求菩提の人々は、章寛君の家族を含めてもそう度々面会に行く事もかなわなかった。そんな中、黒原の仕事を超えた尽力が章寛君の心を支え、成長を促したといっても過言ではない。「いい弁護士に当たった」と話されることが多いが、章寛君の場合、起こしてしまった事件は大変不幸であり、過酷な運命でもある。ただ、事件後彼に関わったのは、多くの善意の人々であり、その善意をひきだしているのが、彼の人柄や、人間として成長していく姿であるような気がする。その成長を促す大きな役割を黒原が果たした。

    つくしんぼ保育所での集まりの翌々日9月10日、求菩提では先の学習会での高揚した気分がまだ続いていた。集まった20名ほどが意見を交わし、減刑の嘆願書を集めるために「支える会」を求菩提でも結成することとし、それぞれの関わりの深い人たちで例えば「奥本章寛君を支える同級生の会」といった、個別の会をも立ち上げようと言う意見もでた。次の会合の日程を決め、もう一度集まることにしたのだが、この日一番印象的だったのが、前述のような父親、浩幸の発言だった。

 章寛君の小学生の時から、地域の剣道クラブの顧問として章寛君を指導し、浩幸と同級生でもあった飯盛俊二は、つくしんぼの集会の中で章寛君のことに触れて次のように発言していた。

 『非常に真面目に、一生懸命練習に励む我慢強い子だった。ただ、その我慢を剣道で教え込んだことが結果的に、我慢に我慢を重ねさせ、あのような事件に至らしめたのではないか?本当に苦しい時にSOSをだすことを教えることも大事だったのではないか?と悔やまれる』

 そして、この日飯盛が気にかけていたのは、事件から3年が経とうとする今、やっと落ち着いた暮らしを取り戻しつつある奥本の家族にとって、このような動きをすることは事件をもう一度表に出し、彼らを苦しめることになるのではないか?という疑問だった。
 飯盛の発言は、岸本達の「支える会」と求菩提の人たちとの微妙な温度差を表す象徴的な発言だった。岸本達との出会いの当初から、その熱意や行動力には感心しながらも、どうしても、活動に慣れた人たちに対して、そうでない地元の人たちの中には違和感があった。日常をすぐ近くで過ごし、毎日顔を合わせるような環境の中には、曰く言いがたいデリケートな部分も含まれる。平穏な日常こそを大事にする人たちでもある。

 岸本たちは、奥本章寛という名前をだすことに、気は使いながらも必要だと考えれば躊躇はなかった。一方地元の中には、奥本家の日常の顔が見えるだけに、家族の思いや、つらさを先におもんばかる気持ちが強かった。そんな中での飯盛の発言だった。当日、その場に来ていた浩幸は、
「私達家族は覚悟は出来ています。章寛が死刑でない判決を受けることが出来るなら、どんなことでも受け止めます。よろしくお願いします。」と頭を下げた。普段は寡黙で、恥ずかしがりの浩幸の発言だっただけに、その覚悟と決意が強く胸をうった。

 この後も「支える会」の活動の中にしばらくこの温度差は続くことになるが、その度に両親、家族の覚悟を確かめることと、何より「無期」判決を望んでいることを確認することで、地元の支える会のメンバーも逆に、その判決を得るために覚悟と勇気を持って行動する気持ちを固めていくことになる。

   翌月10月8日、宝寿寺の矢鳴宅で、再度集まりがもたれ、正式に「奥本章寛くんを支える会 求菩提」が結成された。そして、事件の裁判のなかで何処が問題点なのか、我々に何が出来るのかが話しあわれた。その時の学習会で使われたのが次の資料である。長くなるがそのまま転載することで、この冊子を読んでいただく方にも参考にしていただきたい。

       資料1

    2011年11月11日に今度は求菩提に黒原弁護士を迎えて「つくしんぼ」での集会に参加出来なかった地元の人達にも事件の内容を伝える集まりを持った。

 黒原の二度の来訪と、私達自身が、裁判について調べることで、宮崎でのこの事件のだいたいの内容と、裁判員裁判の持つ問題点が少しずつ明確になっていった。そして忘れられようとしていた事件がもう一度、別の形で地元の人々の意識に上るようになった。そのように人々の心に変化を与えていった黒原の話の中で忘れてはならないのは黒原が語る章寛くんの人柄と成長についてである。
 求菩提で過ごした18歳までの彼と、事件を起こすに至った4年後の彼。その後拘置所内で生きている今の彼。そのギャップや、理解出来なさが、結果の重大性と相まって人々を忘却や無関心に導きかけていた。そこを黒原が変えた。重要だと思えるので黒原弁護士に章寛君の人柄、出会いから現在まで、を要約して書いてもらったので、ここに転記する。

 

1 はじめに

 みな奥本くんのことは、「おっくん」と呼んだり「あっくん」と呼んだりする。そのような愛称で呼ばずにはいられない魅力をもっている。それが、奥本くんである。

 
 私は、はじめての人に奥本くんを紹介するときには、次のように言う。

 「皆さんにおいて、いつも笑顔を絶やさず、気遣いをよくする子を想像してみてください。元気いっぱいに何事にも積極的に取り組む子を想像してみてください。年配者を敬い、親切に尽くす子を想像してみてください。子煩悩で子供の世話をよくする子を想像してみてください。想像しましたか。いま思い描いていただいた子ども像、これをすべて足していって、最後にできる人物像、これが奥本君です。」と紹介するのである。

 その奥本くんと交流も、はや4年が過ぎた。これまでどんな話をしてきたのかを中心に、奥本くんの素顔を振り返ってみたい。

 2 受任当初のころ

 受任当初のころは、緊張もあったのであろう、口数もいまほどそう多いものではなかった。今と比べて、話す単語がやや少ないように感じていた。それでも、明るく、はきはきと答える様子は、最初からであったと思う。

 ストレスから、発言にとげがあったり、乱暴になったりする被疑者の方もいる。しかし、奥本くんは一度たりともそのような嫌な感じをさせることはなかった。ただの一度も。だから、面会はいつも長くなった。時間が過ぎるのはあっという間だった

 3 第1審の裁判のころ

 裁判は、緊張もしたと思う。それでも弁護側検察側、さらには裁判員からの質問によく答えた。 忘れもしない、判決が出た次の日、面会に行った日のこと。 

 「先生、気を落とさないでください。自分は、事件のその日からこのような結果になることを覚悟していました。ショックはありません。だから、気を落とさないでください。」そのような気を遣う青年、それが奥本くんなのだ

4 控訴審のころ

 控訴審段階では、臨床心理士の先生2人に犯罪心理鑑定をしてもらった。

 ここでも、奥本くんは、質問によく考え、また自分の考えをよく答えたと思う。素直でまっすぐな性格は、臨床心理士の先生方にも、よく伝わったはずである。いまでも臨床心理士の先生との手紙のやりとりは続いている。

 控訴審のころくらいから、裁判のペースもゆっくりになったので、これまでに増して、たくさんの会話ができるようになった。 両親への思い、祖父母への思い、兄弟への思い。はたまた剣道の話、相撲の話。思えば、たくさんの会話をしてきた。奥本くんとの会話は、いつでも楽しく、また、意外な着想に感心するようなこともしばしばであった。

 多くのことに関心を持つようになった。 本もほんとうにたくさん読んでいた。宗教や思想の話では、とうとう私ではついていけなくなった。 本願寺でお経や仏教書を買ってきたのもこの頃である。 黙々と本を読み、写経をし、ほんとうに勉強家だった。

それでいて、野球、サッカーなどのスポーツにも興味・関心をもった。

 こうだねと話すと、でもこうですよ、と当意即妙で返す。会話もぐんぐん上達した。成長の速度はいよいよ増した。 そのような中にあっても、奥本くんは周りへの気遣いを忘れたことはなかった。暑さ、寒さに限らず、面会にくることへの感謝の言葉を忘れたことはない。どうしてここまで素直でいられるのかな、とさえ思うほどであった。奥本君は、ほんとうにのびやかに、素直に成長してきた

 

 昨日の奥本くん

 奥本くんは、現在、はがき絵の製作に夢中である。絵はがき作品集第1集は完成し、上々の評判を得ている。それを伝えると、気分を良くしたのか、いよいよ製作意欲を高め、描くスピードが増してきた。
 「奥本画伯、どんどんと描いてもらわないと困りますよ。」と私が冷かして言うと、「最近、出来栄えが気になって、気に入るまで何度も描きなおすんです。気に入るまでね。でも、これだ!と思うものには、まだ巡り会わないね。」などと本当の絵描きのようなことを言う。

 ふと、奥本くんがこれまでに聞いたことのないようなセリフを投げた。

  「先生が僕の骨を拾うか、僕が先生の骨を拾うかどちらかですね、ここまでの仲になると。」そう言って、奥本くんは、笑顔で笑っている。 自分も笑った。胸がじんとした。                             

 以上が、黒原弁護士の見てきた章寛君である。

 2013年4月14日中津市で「いま、死刑を考える映画とお話の集い」と題した集会が催された。内容は映画「死刑弁護人」、東京の安田好弘弁護士の活動や生き様からこの国の司法のあり方を問うドキュメンタリー。併せて黒原弁護士が奥本君の事件について話すというものだった。150名もの方が参加してくれて、集会としても成功だったが、実行委員会を重ねる中で、見えてきたものがあった。

 奥本君の事件と死刑制度を併せて考察したとき、奥本くんが単にかわいそうだからなんとか無期懲役に減刑を、ということではなく、罪を償うとはどういうことなのか?人が人を裁き、国が人を殺す死刑制度というもので、本当に罪は償われ、関係する人々は救われるのか?犯罪は抑止されるのか?といった国家的、普遍的な問題が、、、。死刑存置派が80パーセントとも言われるこの国で、また、今まで本当にはその制度に向き合ったこともなかった人間にとって、とても簡単に答えの出る話ではないが、奥本くんを支えたいということはそういうこととも向き合っていくことだということは解ったような気がした。

 この集会にはTBSのニュース23の取材班もわざわざ東京から取材に来ていた。後で解って来るのだが、彼らは、裁判員裁判のあり方について取材を進めるなかで、奥本君との面会を重ね、奥本君を知れば知るほど「彼を死刑にしてはいけない」と言う気持ちを強く持ち、報道の中立性を強く意識しながらも、我々とも協力してくれることになる。

  ここまでが、奥本章寛君を支える動きの第一段階である。

この後、会の活動は思いもよらない展開を迎える。

 


 
三、原田さんの視点

 
 2013年10月14日、宝寿寺で支える会求菩提の主催としては第1回目の学習会を行った。この会に先立って正式に代表飯盛俊二、事務局に矢鳴実佳、荒牧浩二を決めた。また、後になってからだが会計を桜井はるみが引き受けてくれた。

 資料として、たまたま荒牧の友人が個人的に送ってくれた、同朋新聞2013年7・8月号に掲載された特集記事と森達也氏のインタビュー記事が用意されていた。同朋新聞は真宗大谷派、いわゆる‘お東‘が発行する機関紙だが、その月の特集が、−「償い」とは何か?殺人事件の被害者となってー、と題された原田正治氏へのインタビュー記事だった。驚いたことに、翌月行った2回目の学習会には、黒原弁護士と共に別府に移住されたばかりの原田氏本人が現れることになる。これも後で解ることなのだが、その原田さんと黒原を結びつけたのは、他ならぬ章寛君であった。彼が、拘置所内で得た情報として、黒原に原田氏のことを伝えていた。『会ってみたらどうですか?』と。

 『原田正治さん、66歳。今から30年前交通事故に見せかけた保険金殺人によって弟の明男さん(当時31歳)を殺された.主犯は長谷川敏彦さん(当時32歳)。原田さんはこの数十年、長谷川さんを憎み、当初は死刑を望みながらも、死刑という制度と自分の気持ちの間で揺れ動きながら生きてきた』と、新聞の巻頭で紹介されている。又 『加害者が死刑になっても弟は戻ってこない』弟を殺された原田さんは死刑が確定した加害者の減刑を願う上申書を出した。「生きて償って欲しかった」しかしその思いに至るには言葉では言い尽くせない数十年の葛藤がある。そしてその苦悩は、死刑が執行された今、より重いものとして原田さんの上に現れている。「償い」とは何か、「罪」とは何か、、、。とも紹介されている。(同朋新聞から)

 原田正治氏との出会いは支える会にとっても衝撃的だった。これまで常に加害者である奥本君の側から事件を見つめ、何とか死刑判決を回避したいと考えてきた。事件に至るまでの経緯の中で、貴子さんの理不尽な仕打ちの末に追い詰められて、追い詰められて、自己を喪失した状態で行われた犯行であるならば、章寛君はむしろ被害者ではないか、という意見もあった。その側面は今でもあると考えているが、もう一度良く考えてみたい。三人もの命、特に雄登くん、くみ子さんという何の罪もない人間の命を奪ってしまったことを考えたとき、どうやってその罪を償うのか?裁判の判決は、「どうやってもその罪は償えない、だから、命には命を持って、命を差し出してそれと引き替えに罪を償いなさい」ということだろう。そのことには、どうしても違和感がある。だが、「じゃあ、どうやって?」。

 我々には方向が見えていなかった。

 そんな時、原田さんの視点に出会った。原田さんは被害者遺族でありながら、死刑判決の確定している加害者に、生きていて欲しいと言った。赦すことまではできないが、生きていてくれることで、怒りや、疑問や、葛藤をぶつける、たった一人の相手としてそこに存在していることで、自分が癒される面があったと言う。社会や、死刑判決では決して慰めてはもらえなかった、ということと併せて。そして、本当の「赦し」とは何か?もしかしたらそれは、「人智を超えたところにあるのでは?」とも問いかける。

つまり、被害者、及び、被害者遺族の立場から考えたときにも本当に「死刑」以外の判断を求め、生きて罪を償うと言えるような説得力のある方向性、そして事件に関係した多くの人が本当に救われる道。それが、原田さんの言う、被害者遺族と、加害者の再度の出会いから始まるのかもしれない。かすかに道筋が見えたような気がした。
 支える会の活動をしながらもずっと皆の気持ちの中には「三人も殺したんだから死刑で当然でしょ」と言う、社会の無言の圧力があった。いや、昨今はむしろ、もっともっと被害者の遺族感情を考慮すべきだとする風潮であり、重罰を望む傾向が社会には増大している。裁判員裁判になり、重罰化は現実に進んでもいる。

 死刑制度廃止、と言う声が大きくなっていかない、いろいろな要因はあると思うが、やはり、命の代償は命をもって償うしかないという感覚しかもてないからだ。だが、被害者遺族である原田さんはそうではないと言う。
 『罪を「償う」ということにも、「許す」ということにも、明確な答えはないが、自分が怒りや苦しみをぶつける相手として、長谷川君には生きて欲しかった』。長谷川さんが、原田さんが始めて面会に訪れた際、『これで自分はいつ死刑になっても本望です』と言った時、思わず『そんな事言うなよ』と言ったそうだ。 そんな経験を通して『私は死刑制度には反対する』と。

  原田さんのインタビュー記事と同時に学習会用に用意した森達也氏の文章の中にも犯罪被害者と加害者の問題が提起されていた。
 被害者(および被害者遺族)の人権と加害者(死刑囚)の人権は決して対立する項目ではない、ということ。ところが、時の政権やメディアの力によって、「あらゆる要素は四捨五入され、グレーな領域は切り捨てられ、二進法のデジタル世界が現出する。善と悪はそれぞれ肥大化する、、、。略」そして、死刑制度について議論するなら情報公開を進め、立ち止まって考えて見るべきだ、とも書かれていた。

 この二回の学習会が、我々にもたらした意味は大きかった。特に原田さんによって、奥本君の支援をしていくということは、「償う」ということを共に考えていくこと、行動していくことであり、同時に司法のありかたや、死刑制度にも直結していくことだということが見え始めていた。続いて3回目の学習会が翌2014年2月22日に再度黒原弁護士を迎えて開かれ、現状の確認と今後の方向性について、話し合いが持たれた。この時にはニュース23の取材班も訪れ、ディレクターの西村氏が章寛君と面会した時の様子等報告し、「彼を死刑にしてはいけない」と強く思っている旨発言して、我々を勇気づけてくれた。



四、被害者家族との出会い

 
 2014年3月6日から11日までの6日間、事務局の荒牧が宮崎を訪れる。

 裁判だけでは解らない事件の全体像を知るためには、どうしても宮崎を訪れる必要を感じていたこと、今の章寛君に会うこと(昨年、面会は果たしていたが)、そして原田正治さんの話を聞いて、なんとしても被害者家族の今の様子や、気持ちを、会って聞きたかったからだ。特に、事件の前まで、すぐ近くの築城航空自衛隊にいて、事件後、そこを辞めてからの行方がつかめない、くみ子さんの弟Yさんの手がかりをつかみたかった。

 細かい経緯は別の機会に譲るとして、宮崎滞在三日目から事態は急展開した。

 まず、貴子さんの20年前に別れた元夫であり、くみ子さんや、Yさんの父親であるKさんに会うことが出来た。住所だけが頼りだったが、なんとか連絡をとり、全く不躾だとは思ったが、宮崎市内のホテルまで来ていただいた。

 Kさんとの対話はきつかった。

「あんた達は、奥本を支えるというけど、支えて欲しいのは息子Yの方だ。」「奥本は拘置所の中でちゃんと食えるだろう、Yはそれさえままならん。」 初対面の折、同じ木工を生業にしているということが解って、少しだけ緊張がゆるみかけていた私(荒牧)は、もう一度極度の緊張感に引き戻された。

 Kさんの話では、昨年7月、Yさんが喰うに困って事件を起こして、警察に捕まった。余罪もあり、3ヶ月拘留、留置され、刑が確定して出てくるまで、何度か面会に行き、差し入れをしたこと。ただ自分は現在の家庭の子ども達に、過去のことなど何も話してないのでYさんにしてやれることには限界がある、ということだった。

「三人も殺したんだから当然死刑でしょう。死刑以外にどうやって償うんですか」そう言われて返答につまった。

 「私にもよく解りません。ただ私達は章寛君に生きて償って欲しいと思っています。償うということの中身がなんなのか?章寛君にとっても苦しいと思いますが、彼は今拘置所の中で一生懸命考え続けています。私達もその彼に向き合って最後まで付き合うつもりです。」と答えるのがやっとだった。「奥本の立場は昔の私の立場でもあった。そりゃひどいもんだった。だから、あいつの気持ちは解らんでもない。でも私はそんなことはしなかった。三人殺したら、そら、死刑だろう」とKさんは重ねて言った。

 昨日、黒原弁護士事務所で読み込んだ、裁判資料が浮かんできた。そのなかで、祖母静江さんが、Kさんについて語る場面があった。『Kは無口でおとなしく、どこか頼り無かった。だから私が別れさせた。』 年月日を確認すれば、くみ子さんが2歳、Yさんは生後10ヶ月のころだった。Kさんの方は『理由も聞かされず、離婚を言い出された』とあった。どういうことか?細かく聞く術はないし、確かめようもない。だが、今のKさんの話とあわせて、確かにKさんもI家の家系のなかで、章寛君と同じような構図の中で苦しんだ時期があったのだ。

「だから今の仕事、手に職をつけたんだよ」とも言った。 今のKさんは、木工職人として重ねた年月を感じさせる、落ち着きと自信があるように見えたし、穏やかな物腰だった。「Yさんと会って、何が出来るか解りませんが、Yさんが今何処にいらっしゃるか、教えていただけませんか?」という私の問いに 「○○台3丁目の読売新聞の販売店に、住み込みでいる筈だよ」と答えてくれた。

 それ以上詳しいことは聞かなかった。それで充分だと思ったし、電話番号や、細かい情報をもらってもその時点では、精神的にいっぱいいっぱいで、すぐに探しに行こうという気にはなれなかった。

 「あのー失礼ですが、Yさんってどんな感じの人ですか?」「やさしい奴だよ、気が弱すぎるかもしれんが」 突然現れた加害者の支援者と名乗る、どこの馬の骨ともわからない人間に、結局Kさんは、丁寧に応えてくれた。本当に優しげな朴訥な人だった。

「この次、宮崎にきたらゆっくり飲んでみたいです。」と言ったら「俺は酒は飲めんよ」と言われてしまった。「有難うございました」と言葉をかけて、日曜日だというのに、これから又仕事に行くというKさんを見送った。

 結果的にYさんとはその日の夕方会うことができた。 信じられないような偶然と、躊躇や不安を超えての対面だったが、今となっては全てが必然だったようにも思える。Yさんは大柄で、髪はぼさぼさ、一見ちょっと身構えさせられるような風貌だったが、一言、その声と話し方を聞いた瞬間に安心できるような男(ひと)だった。 出会いまでの細かな部分は省略する。とにかく飯でも一緒に、ということで入った近くのファミレスで、Yさんが喋りはじめた。

 「僕はずっと、奥本に会いたいと思って、どこにいるのか探してました。福岡高裁だったから福岡だろうとも思ってました。」(実際は福岡高裁宮崎支部)、 宮崎刑務所内の拘置所にいると教えると「えー、そうなんですか、じゃあ、僕が入っていた時すぐそばにいたんだー」と心底驚いた様子だった。

 飯を食べながらの3時間程の対面だったが、初対面にもかかわらず、彼はいろんなことを良く話してくれた。

 自衛隊を辞めて宮崎へ帰ったのは、自分のわずかに残った身内として祖母静江さんがいたからだった。だがその静江さんも一年後には亡くなり、父親のKさんとはめったに会えず、すぐに生活が苦しくなり、サラ金で借金を重ねた末に事件を起こしてしまった。懲役2年、執行猶予3年。刑が確定する直前の4日間だけ宮崎刑務所にいたという。 その時、看守さんに章寛君のことを聞いたが、解らないという答えだったそうだ。現在身元引き受け人になってくれた人の紹介で、新聞販売店に住み込んでいるが、本当はインテリア関係の仕事がしたいとも。生活は本当に苦しそうだ。

 「家族が欲しいんですよね」ぽつりと言った。その一言が私にはとてもこたえた。 「あれから心の支えみたいなのが無くなっちゃって、仕事探しても、面接で家族のこととか聞かれると答えられなくて」

 原田さんが言っていたのはこういうことだったのかもしれない。被害者遺族となった時に、社会はかわいそうだと声はかけてくれるかもしれない。だが、その苦しみや悲しみ、の部分までは共有してくれない。誰にその苦しみ、悲しみそして寂しさをぶつけていいのか解らない。Yさんが初対面の私に、事件のことやその後のことをいろいろ話してくれたのも、事件以後彼の気持ちをストレートに話す相手がいなかったからだろう。

「章寛には無視しとけって言ったんですよね。母―ちゃんも姉ーちゃんもそりゃひどかったから。」「でもねーちゃんは、雄登が生まれてから少し変わったかな」 「あいつに会ったら謝ろうって思ってたんですよ。母ーちゃんがあんな母ーちゃんじゃなかったら、今頃あいつもテレビみたり、パチンコしたりしながら笑ってられたのにって思うから。」

 「生きて出れるといいですねー」「出れますよ、きっと」話の勢いなのか、私に気を使っているのか、びっくりするようなことまで言い出した。 「えっ、だってYさんは死刑を望んでいるって、裁判の時証言してますよね」「あの時も本当はどっちでもよかったんです。ただ、章寛が証言台で普通の顔して、解らない、解らないって言うのを聞いてて、こいつ反省してないなって思ったんで、検事さんに聞かれたとき、そう言ったんですよ。」

 「章寛に会えますか?明日一緒に宮崎刑務所に行ってくれませんか?」というYさんの言葉に一瞬迷った。黒原弁護士にも相談してないし、突然面会にYさんが現れて章寛君のほうは大丈夫だろうか。だが、迷っている暇はなかった。原田さんでも十年近くかかった被害者遺族と加害者の出会いが、明日実現するのだ。そこから何かが始まるのだ、信じようと思った。「もちろん。明日Yさんの新聞配達の終わった時間に迎えに行くから、一緒に行こう」 と約束してその日は別れることになった。

 

五、面会・被害者遺族と加害者の出会い

  翌日のYさんと章寛君との再会は、日常のひとこまのような会話から始まり、そこが刑務所の面会室であることを時として忘れるような穏やかな会話が続いた。 私や、刑務官、立会いの看守さんなどは、みんなかなり緊張していたはずだ。実際、面会願いを差し出した後、呼ばれて面会室に向かう際わざわざ刑務官が出てきて、「お互いが興奮して怒鳴りあったりしたら、面会は即中止します。」と言いにきたくらいだ。結果的には立会いの看守さんの好意か、45分も面会を許してくれた。

 章寛君は落ち着いた様子で笑顔で出てきた。Yさんも「ヨウッ」みたいな乗りで話始めた。Yさんの方がリードして、お互いが知っている刑務所の中の様子や、Yさんが毎日刑務所にも新聞を配っていること、その新聞を章寛君が読んでいること等、最初は雑談が主だった。ようやく30分近く経とうとする頃、Yさんが「だから無視しとけって言ったろ、覚えてる?それから酒飲みに行こうって誘ったよね。 あれは、お前と話しておきたかったんだよ」と、昨日私に言ったことをそこでも言った。この言葉は後日もう一度聞くことになる。

「出たら何がしたい?」とも問うた。その問いに章寛君は「出れるなんて考えられません。今、社会に出るのも怖いです。」 「それでも出れたら?」という再度の問いかけに「高月院に行って、三人の墓前に手を合わせたいし、出来たら京都に行って本願寺に行きたいです。」 「それから、他には?」「故郷の景色がもう一度見てみたい」

 ずっと、黙って聞いていて涙が出そうだった。と同時に二人の会話のチグハグな、何かがずれているような違和感がつきまとった。多分、年齢はYさんの方が一つ上のはずだが、この4年間の章寛君の成長とYさんのある種の幼さ、孤独な4年間の未成熟がかみ合わないのだ。もっと話すことがあるんじゃないのか、もっと突っ込んで話せよ、ともどかしい気持ちで聞いていた。

 翌日、黒原さんに弁護士接見で先に行ってもらい、章寛君に事情を話しておいてもらい、10:30頃Yさんと三人で合流後、再び面会に訪れることにした。そこでは、章寛君がYさんに直接手紙を書くこと、Yさんが又、今度は一人で面会に来ること等を約束して刑務所を後にした。あとで黒原弁護士に聞いたところ、章寛君は最初の面会の時は、ものすごく興奮していて「あれは夢だったんだろうか?」というくらい何も覚えていなかったそうだ。 そうか、そうなんだ、と思った。

 豊前の地元で彼と小・中学校時代同級生だっという娘さんに話を聞いた折、「いじめに近い感じで、まわりからいじられてもいつもにこにこ笑ってたました。みんなが安心して近づいていける明るい雰囲気があったけど、どこかいつも我慢してるような気もしました。」 「緊張したり、困ったりすればする程、笑顔だったんじゃないかな?」という言葉。裁判の時も落ち着いた表情で、本人にとって、言葉にすることが出来ないことに対して「解らない」で終わってしまう受け答え。反省してないわけでも、後悔してないわけでもない。だけど、そう見えてしまう。それが、章寛君だったのだ。

 いろいろな思いが交錯する中、そのことを整理して伝えたり、雄弁に自分のことを話したり出来ない子だったのだ。それでも取り乱したりせず、時には場違いな笑顔を見せたりもしてしまう。Yさんが「あいつ反省してないと思ったから」と言った、その感じ。Yさんとの面会に二度立ち会えて、そのことが良く解ったような気がした。

 面会を終えたその後、黒原弁護士を交えての食事の歳Yさんは『福岡が好きだし、京築の方で働きたい、支える会のメンバーにも会ってみたいし、章寛の故郷も見てみたい。章寛の両親や家族にはなんの恨みも持ってないから家族にも会ってみたい』等話してくれた。私からは、 『求菩提に招待するから支える会のメンバーとも交流して欲しい。次に来る時はきっと原田さんを連れて来るから、是非会って原田さんの話を聞いて欲しい。それまでに原田さんの本(弟を殺した彼と僕)を呼んでおいて欲しい。−たまたまこの本を、この旅行の間ずっと読んでいたし、黒原さんも持っていたので、彼に手渡すことが出来た。−』という事等伝えて、再会を約束して別れた。

 帰りの車中、ずっと一人で考えていた。宮崎に来る時には、それでもまだ、貴子さんや、くみ子さんの側のある種の問題を見つけたい、と思っていた。YさんやKさんのこともどこか、怖い、激しい性格のように感じて恐れていた。でも会ってみれば、普通の人だしむしろ優しい、とても朴訥な人たちだった。貴子さんもくみ子さんも激しいところや、きついところはあったかもしれないが、事件さえなければ、それはそれとして、人生を全うしていたのだろう。なのに被害者の側のあら捜しばかり考えていた。どこか視点が違っていたのだ。そして、ふと気がついた。

 『雄登くんからの視点だ』と。

 この事件について考える時、整理するためによく家系図を書いて考えていた。そして、いつも一番下に雄登くんがいた。だが、雄登くんからから見たらどうなるか?確かにお父さんが、自分と母親とおばあちゃんを殺してしまった。そして、今度は叔父さんとおじいちゃんが、お父さんを殺して欲しいと言っている。お父さんを助けたいと言ってる人たちはお母さんや、おばあちゃんの悪口ばかり言っている。もしも、たった5ヶ月で死んでしまった雄登くんの魂というものがあるのなら、今、天国からどう見ているか?どう思っているか?

 『もう、みんないい加減にしてよ。みんな仲良くしてよ。僕の家族でしょ。仲間でしょ。』

そう言っているに違いないと思った。 一週間の疲れや、興奮で、感傷的になりすぎていたか、とも思うが、あの時は確かにそう確信していた。 この事件に関わって傷ついた人たちみんなが、もっと、本当に救われる道があるはずだと



六、時間のかかること

  2014年3月15日、第4回目の学習会に於いて、荒牧が宮崎に行ってきたことの報告が行われた。

 宮崎で被害者家族二人に会えたこと、特に弟Yさんの現在の境遇、原田さんの言っていた、加害者と被害者遺族の出会いが実現したこと等報告し、Yさんとの関係を深める為にも出来るだけ早く原田さんに、Yさんと会ってもらうこと、さらに5月の新聞休刊日にYさんに求菩提に来てもらい交流会を持つことが決められた。すぐに原田正治さんに連絡を取り、3月29、30日に今度は原田さん、荒牧二人で宮崎へ向かった。

 この時の様子は原田さんのブログに詳しく書かれている。Yさんと原田さん二人だけで話す時間も取れて(Yさんの希望だった)、原田さんは手ごたえを感じたようだった。Yさんの方も被害者遺族として生きてこられた原田正治さんの生き方、考え方、人柄等、多くのことが伝わったと思うし、又、そう願う。

 夜の飲み会まで含めて、緊張感の中にも、有意義で楽しい一日だったが、日中の4人の会話の中で、Yさんは、私との初対面の折に言った、あの言葉を口にしていた。原田さんや、黒原さんの前でももう一度確かめてみたいと思っていた私が 『Yさんはなんで章寛君に会いたかったの?』とあえて聞くと、『会って、謝りたかったんです。うちの母ちゃんがあんなふうに追い込まなければッて』

 原田さん、黒原さん、三人で思わず顔を見合わせた。原田さんは特に驚いたようだった。『だけど、面会の時謝らなかったよね』と私。『あー、だから無視しとけって言ったって、言ったんだ』と黒原さん。 『でも、あれじゃ謝ったってこと章寛君には伝わってないよ、Yさんは章寛君が反省してない、変わってないって言うけど、(あの面会の後、章寛君からYさんあてに謝罪の手紙が2通届いていたのだが、その日も彼はそう言っていた)、Yさんの言葉もちゃんと伝わってないよ。』

 ずっともどかしいものを感じていた私が、思わず勢い込んでそう言った。『時間がかかるんです』、と原田さんがとりなすように、噛み締めるようにそう言ってくれた。 有難かった。そのとうりだと思った。

 二人が本当に心を言葉にして、伝え合い、理解しあうには時間が必要だし、お互いの成長が必要なのだ。そのためにも周りの支援が必要なのだ。原田さんに一緒に来てもらって本当に良かった。

 七、交流会

  5月6日、Yさんの求菩提訪問も実現した。

 宝寿寺での交流会。酒も入って和やかに、そしていつの間にか和気藹々。Yさんは楽しそうだったし、最後の片付けの時には、地元の女性陣の中にすっと入って、茶碗洗いにもなにげなく参加出来る、そんな気さくな一面も見せてくれた。この会がどういう経緯や、主旨で行われたものだったのか、一時忘れそうなくらいに、楽しく、うれしいものだった。 そういう雰囲気で会が進んでいったのは、何よりYさんの人懐っこい性格によるが、実は誰も想定していなかった、とても感動的な場面が、この交流会の最初にあった。

 交流会を始める前に、やはり矢鳴家らしく、みんな本堂に集まって、住職がお経をあげた。普段あまり宗教心のない人間でもこの時は心から三人の冥福を祈ったのではないだろうか。お経上げが終わって、交流会会場へ向かおうとした時だった。章寛君の祖母良子が突然Yさんの前に手をついて 「本当に申し訳ないことをしてしまいました。ごめんなさい。どんなに詫びても取り返しのつかないことだけど、ごめんなさい」と、涙を流しながら頭を下げた。Yさんの方は突然のことにどう振舞ったものか、とまどった様子だったが、良子の言葉はあとから、あとから続いて、この4年間の思いのたけを絞り出すようだった。

 不謹慎な表現かもしれないが、こんな場面に立ち会えたことに感謝したいと思った。誰かが意図したことでもなく、ありのままの人間の感情がそこにはあった。まわりで涙ぐむ人が何人もいた。この場面が、三人もの人が殺害されたことに発して現出しているということが、残念でならないということと併せて、不思議な厳粛さに満たされていた。
  翌日、Yさんを奥本家に案内した。浩幸は仕事でいなかったが、祖母良子と母親和代と三人でもう一度静かに話しをしてもらった。和代は 『ここを実家だと思って、いつでも遊びに来なさい、連絡もいつでもしていいし、米や野菜も送るからね』と優しい言葉を何度もかけていた。


 この人の優しさと心の広さ、覚悟の見事さ。この拙い文章では表現できないが、決して息子を助けたいと言うことだけではない、ということだけは断言できる。以前どのような人だったのか私は知らないので、比較のしようもないが、この2年間私の知る限りにおいてのこの人の発言は、常に覚悟と優しさにあふれている。

 奥本家の人たちを知れば知るほど、この事件がもたらした罪の大きさを改めて感じる。ほんとうにみんなが傷ついてきたのだ。と同時に、不遜な言い方だが、この過酷な運命がこの人達を大きく成長させていると思うし、この人たちもまた、癒され救われて欲しい。きっといつか誇りを取り戻して欲しい。

 奥本家を訪問し、求菩提を少し見学した後、Yさんを駅まで送った。その車中でYさんは 『来て良かったです。支える会の人たちと会えたし、章寛の故郷も見ることが出来たし』『章寛を許せるのか、どうか、まだよく解りませんが、最高裁の裁判が始まるまでもう一度考えて見ます。』と言ってくれた。そして、『明日、面会に行ってみようかなー』という言葉を残して改札を通って行った。

 6月1日『奥本章寛さんと被害者家族を支える会』が立ち上がり、これからさらに章寛君とYさんの交流、理解が、そして真の意味での『償い』と『許し』を見出して行こうとしていた矢先。黒原弁護士から一報が入った。

 「9月8日、最終弁論をと最高裁から通知がありました。」

 さすがに黒原さんも動揺しているように感じられた。原田さんと宮崎を訪れた際、「もしかしたら裁判が早まるかもしれない」と最高裁の動きを懸念していたのだが 、それが現実となってしまった。最終弁論があれば、判決は遅くとも2ヶ月以内には下るという。

 章寛くんにも我々支える会にも、残された時間は後わずかしかない。

 以上が、この「宮崎家族三人殺害事件」の概要、裁判の進行、そして支援する人たちの取ってきた行動の経過である。 今日は6月28日。今晩第6回目の求菩提での学習会が予定されている。残された時間は、本当にあと僅かしかない。

 八、まとめ

  事件発生から4年と4ヶ月。この事件に多くの人が関わってきた。最高裁に提出された署名は5,000筆を超え、嘆願書は200通以上になる。

 事件は、三人もの尊い命が奪われた殺人事件であり、どんな事情があったにしろ犯したその罪の重さは決して軽くなるものではない。しかし、それでも、あるいはそれだからこそ、我々は奥本章寛さんに生きて罪を償って欲しいと願っている。

 「罪を償う」とはどういうことだろうか?その答えは未だ見つかっていない。

 章寛君はそのことを拘置所の中で考え続けている。仏教に帰依し、写経をするなどして宗教的な面からも取り組んでいる。被害者遺族へ向けても、謝罪の言葉を模索し続けている。今回のこの小冊子には間に合わなかったが、今も彼なりの捉え返しを行っているはずだ。「死刑」判決が出ないことを我々は願っているが、章寛君はどうだろうか?彼が今までに書いた手紙や、証言から、あるいは面会の折の言葉を聞いていても、彼の気持ちの中にも迷いがあるように感じられる。 仮に「無期懲役」が確定したとしたら、その後の長い年月を償いのために、一生刑務所で過ごすことになる。そのことを想像するだけでも、つらく、苦しく絶望的な気持ちになるのではないだろうか?それでもこの4年間、彼は毎日、生と死に向き合ってきた。精神的には我々常人の何倍もの速さで成長している。生きるということ、死ぬということに、今の彼ほど真摯に向き合っている人を私は知らない。

 この事件は4年4ヶ月の間に特異な展開を見せてきた。黒原弁護士というすぐれて熱心で、仕事や報酬を超えて弁護活動にあたった弁護士との出会い。たまたま周囲にいた善意で行動しようとする人々。奥本家全員の人柄、原田正治氏との出会い。そこから被害者遺族との再度の出会い、交流。それらは多分奥本章寛という人物が持って生まれた、‘力‘と‘役割‘が呼び寄せたものではないだろうか?彼なら「償う」ということや「赦し」ということがどういうものなのか、その一生をかけて答えを出してくれると期待し、願い、信じている。

 「支える」という言葉はおこがましいが、もし「支える」と言う事もまた本当の意味であり得るとしたら、一生をかけて答えようとする彼に最後まで向き合い、寄り添うことだろうと考える。そのことの先に、この事件に関わって傷ついた人たちが、人間としての誇りを取り戻せる日が待っていると確信する。

 私達は、彼に『生きて償って』欲しい。

            (注 文中の敬称については、奥本君の家族、支える会メンバーに関しては略させていただきました。又、被害者遺族にご迷惑をかけてはならいのでイニシャルのみの表記にしました。)






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今日の章寛さん

奥本章寛さんと被害者家族を支える会

〒828-0083
福岡県豊前市大字岩屋682

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